資料番号 № 0005
ドアチェーン
23:35
バフティヨルの肩の雪はまだ溶けない。ラリーサ・ペトローヴナは奥の冷蔵庫でスメタナを探していて、アプリは配達時間を数えている。二十五分のうち、残りは二十一分だ。彼女は小さな容器を手に戻ってくると、エプロンでぬぐい、キャベツのスープ、シチーをお玉で容器の線ぎりぎりまで注ぎ、ふたを手のひらでぐるりと押さえて、もう一周押さえる。ふたはとっくにぱちんと閉まっているのに。店名の「スィートゥイ・ドヴォール」と注文番号と時刻の入ったシールは、最後に貼る。
「スメタナ、ちゃんと渡すんだよ。スメタナなしでシチーを食べるのは軍隊くらいなんだから」と彼女は言う。軍隊には行ってないから、いつももらっていくんです、とバフティヨルが答えると、彼女は笑う。同じ返事をもう二十回は聞いているはずなのに。
彼女は容器を持ち手が上になるように袋に立て、毎晩いったい誰に運んでるのさ、少しは教えなよ、と訊く。おばあさんにです、と彼は言って袋を受け取る。彼女の後ろの冷蔵庫には箱入りのケーキが入っている。昼間にオーナーが持ってきて、零時ちょうどに切るようにと言い置いていった。零時から料理人の日が始まるからだ。九時にはもう、ラリーサ・ペトローヴナはこう言い渡していた。四十年コンロの前に立ってきて、自分にも祝日があるなんて今日はじめて知ったよ、ひとりで切る気はないから、向こうでぐずぐずするんじゃないよ。
雪は十時を少し過ぎたころに降りだして、すぐに積もりはじめた。路面電車の終点のそばに停めてある車の上にも、まだ葉を落としきっていないポプラの上にも。ラリーサ・ペトローヴナはそのとき窓の外を見て、今日は冬のセルギイの日、冬の始まる日だね、と言い、母親がよく、夜の雪は根づくけど昼の雪は残らないと言っていたと話した。バフティヨルはもうドアのところにいる。四十一号室は毎回、シチーそのものより高い三百ルーブルをチップとして上乗せしてくれて、三週間でイヤリングがほぼ片方買えるくらいたまった。妹は三月に結婚するからイヤリングはふたつ要るのに、ウルグトのバザールの売り手は月末までしか取り置いてくれない。
23:38
二号棟は波板の塀の向こうに建っていて、塀には移転の告知と長いプログラム番号の掲示が貼ってある。門のわきでは工事業者の暗いトレーラーハウスが眠っていて、その踏み段には雪が平らにふっくらと積もっている。棟全体で明かりがついている窓はふたつきりで、どちらも一階の入口の左側にあり、ひとつにはテレビの青い光がちらつき、もうひとつにはひまわり柄のカーテンがかかっている。
バフティヨルは自転車を塀に立てかけ、荷台から保温バッグを下ろすと、肩にかける前に横のポケットを手のひらで二度たたいて、硬いものがちゃんと入っているのを確かめる。そこにはクリアファイルに入れたパスポートと居住許可証と衛生手帳が入っている。上着は雪がすぐしみ通るけれど、バッグのほうはいまのところもってくれるからだ。最初の冬、ふたりでカナヴィノを配達してまわっていたころに、ファッルフがそう教えてくれた。去年の夏、ファッルフは配達の仕事から外された。彼はパテントと呼ばれる外国人向けの労働許可で働いていて、パテントの者はもう配達員になれなくなったのだ。それ以来ソルモヴォの工事現場で働いていて、夜になると、書類を見せろと言われる場所には近づくなと繰り返す。
門から入口までは三十メートルほどあり、その三十メートルの雪にはくぼみひとつない。バフティヨルは歩きながら、靴底の矢筈模様がくっきりついた黒っぽい自分の足跡を振り返る。つまり夜十時から、この建物には誰も入っていないし、誰も出ていない。おばあさんも、テレビの部屋の人たちも。エレベーターのない四階まで、おばあさんは昼間だってそうそう上り下りできないだろうし、テレビの人たちだって家にこもっていていいはずだ、と彼は考えることにする。二週目に一度、彼はテレビの窓をノックして、四十一号室には誰が住んでいるのかと訊いたことがある。タンクトップの男がカーテンをよけ、彼の黄色い上着をじろじろ眺めてから、ガラス越しに言った。「知るかよ。上には行かねえんだ、寒いから」。それからカーテンをさっと閉め、テレビの音を大きくした。
入口のドアにはインターホンもなく、もう長いこと誰も鍵をかけていない。すきま風に押されて、ドアは自分から彼のほうへ少し開く。バフティヨルはドアに「ラフマト」と言う。母は荷物を抱えた自分を通してくれるドアに、ひとつひとつそうやって礼を言っていたので、彼も十四のときからそうしている。エレベーターにさえそうする。
23:46
階段は濡れた漆喰のにおいがして、窓の下のラジエーターは冷たい。住人の大半が引っ越していった春に、この棟の暖房は止められた。四階の廊下は左右に長くのびた寮らしい廊下で、ほとんどのドアに、住宅管理事務所の青いスタンプを押した白い紙の封が貼ってある。彼は携帯のライトで足もとを照らしながら、誰かの子どもの襟巻きがいまもノブに掛かったままの三十八号室の前を過ぎ、五徳のなくなったコンロが並ぶ共同キッチンの前を過ぎる。
ここから最初の注文が来たのは九月二十九日で、注文者の名前のかわりに、G・A・Kという三文字と、九二〇で始まる電話番号が出ていた。その夜バフティヨルは四階まで上がってチェーンを見て、下の自転車のところに戻るころには、事情はすっかりわかったつもりでいた。移転のときに忘れられた老人か、意地を張って出ていかなかった老人が、寒い部屋に座りこみ、温めるものがないから温かい料理を注文しているのだろう。彼は区の社会福祉の窓口の番号まで携帯で調べた。そこへ三百ルーブルのチップが届き、地区の警官についてファッルフに聞かされた話を思い出した。警官はまず通報してきた者の書類を調べて、話を聞くのはそのあとだという。番号には結局かけなかった。それ以来、彼はこの注文を毎晩、順番を飛ばして取っている。仲間の誰かに取られて、そいつまで質問を始めたら困るからだ。
四十一号室は、いつものようにチェーンをかけたまま細く開いていて、すきまの奥は暗い。彼は指の関節でノックし、すきまに向かって「スィートゥイ・ドヴォールからお届けです」と言う。手はすぐに出てくる。灰色の手編みのカーディガンの袖に包まれた手が、彼の指には一度も触れずに、袋の持ち手をふたつともていねいにつかみ、なかへ引き入れる。彼は「どうぞ召し上がれ」と言い、階段でアプリの「配達完了」を押す。
二階の踊り場で、この階段にひとつだけ残った電球の下に来たとき、手のなかの携帯が震える。画面にはこうある。「お客様がドアの前でお待ちです。商品を受け取っていませんか?」。その下に小さな字で、「お客様の確認がない場合、10分後に苦情が登録されます」。苦情が入れば注文は取り消され、評価は下がり、サポートから問い合わせが来る。今月はもうふたつ受けていて、三つ目はアカウント停止を意味する。そうなれば四十一号室はもう彼の手を離れ、二つ目のイヤリングは三月までにそろわない。彼は「お客様に電話」を押すが、呼び出し音は途中で切れる。
バフティヨルは顔を上げ、四階まで真っ暗な吹き抜けを見上げる。袋を渡したのは一分前だ。手のひらが勝手にバッグのポケットをたたく。塀のところで、ほんの五分前に確かめたばかりなのに。
23:52
彼は一段飛ばしで駆け上がる。四十一号室のドアはさっきより広く、三十センチほど開いていて、チェーンは枠に沿って垂れ下がり、まだかすかに揺れている。
「すみません、配達の者です。ご注文、受け取られましたか」と彼は暗がりに向かって言う。返事はない。彼はドアを押し、なかを照らす。
部屋は十二平米ほどの狭さで、窓がひとつあり、その向こうで雪が降っている。壁ぎわの床には、スィートゥイ・ドヴォールの容器がきちんと列をなして並んでいて、どれもふたが閉まったまま、彼のシールが貼ってある。窓台にももう一列あり、クロスのかかっていないテーブルにもふたつある。いちばん手前の容器にかがみこんで読む。九月二十九日、二十三時三十一分。その隣が三十日、その次が十月一日。スメタナの小さな容器は別にして、冷たいラジエーターのそばに、これも列にして置いてある。酢漬けのキャベツとほこりのにおいがする。ウルグトの祖母の家の、漬物をしまっておいた納戸がこんなにおいだった。子どものころその納戸の入口でそうなったように、彼は一瞬、息が止まる。ベッドは鉄製でマットレスがなく、スプリングの網は床すれすれまでたわんでいる。ドアのそばの釘に灰色の手編みのカーディガンが掛かっていて、襟には病院のクリーニングのタグが縫いつけてあり、番号はあるが名前はない。
ベッドの下はがらんとしてきれいで、部屋に戸棚はなく、ほかのドアもない。彼は列ごとに容器を数え、ラジエーターのところでわからなくなって数え直し、二十になる。ふたはどれも開けられていない。
23:58
アプリを信じるなら、苦情まであと二分。バフティヨルは両手をあけるために、保温バッグを戸口の床に置く。サポートには、日付の入った彼のシールが貼られた容器の写真が要る。ちゃんと届けてあるのを見てもらえばいいし、誰がよそのシチーをここにためこんでいるのかは、向こうで勝手に調べればいい。彼はドアを撮り、壁ぎわの列を撮り、しゃがみこんで今日の日付のシールを探すが、見つからない。今日の袋はこの部屋にはない。彼は立ち上がり、窓台全体を画面に収めようと、窓のほうへ二歩進む。
背後で、ドアがやわらかく、音もなく閉まる。すきま風だ、入口を開けてくれたあの風だ、と考えるくらいの間はある。それから、チェーンが溝をすべっていく。カチリ。
手のなかの携帯は窓の外の雪を照らしている。部屋は丸ごと彼の背後にあり、彼はもうそれをすっかり覚えている。十二平米と、二十の容器。ドアのどこに立てばチェーンに手が届くのかも、わかっている。彼は振り向く。
00:04
彼は三階と二階のあいだの階段で手すりにつかまり、口で息をしている。チェーンをどうやって外したのかは覚えていない。覚えているのは、それが冷たかったことだけだ。手のひらにはチェーンの赤い跡がついていて、電球の下でゆっくり薄れていく。手のひらが勝手に脇へ、バッグのベルトがあるはずのところへ行き、濡れた上着を二度たたく。
バッグは上の、戸口に置いたままだ。横のポケットのクリアファイルには、パスポートと居住許可証と衛生手帳が入っていて、あれがなければ、モスコフスキー駅で最初に出くわしたパトロールに止められる。再発行はできるし、ファッルフは再発行した人間を知っている。半年がかりで証明書を集めては移民局の窓口に並び、どの窓口でも、いつどこでどういう状況で書類をなくしたのかと訊かれるのだ。ここから緊急番号の112に電話して、移転の済んだ建物に誰かいると言うこともできる。そうすれば警察が来て、まず、おまえは誰だ、夜中の一時前に取り壊し予定の建物で何をしている、と訊き、上に置いてきた書類を見せろと言うだろう。
携帯が震え、すぐにもう一度震える。お客様の苦情が登録されました、とアプリが知らせてくる。ラリーサ・ペトローヴナからメッセージが来る。「零時!!! あたしの日だよ、おめでとう!!! あんた抜きじゃ切らないからね、どこにいるの???」。そのあとにケーキの絵文字が三つ。
彼はライトをつけた携帯を前に突き出して、上へ戻っていく。踊り場に着くたびに、断りなく上がりこんだ家の主に話しかけるような小声で、ていねいに言う。「バッグを取るだけです。取ったら帰ります」。四階に着くころには声がかすれて出なくなり、最後のひとことは唇だけで言う。
00:09
四十一号室のドアは同じ三十センチだけ開いていて、チェーンは枠に沿って垂れている。バッグは置いたとおりに戸口にある。バフティヨルは敷居をまたがずにしゃがみこみ、横のポケットに手を入れて、クリアファイルと、パスポートの硬い表紙と、もう一冊の小さな手帳、居住許可証を指で探り当てる。全部ある。
窓台の端に、今日の容器が置いてある。ふたは外されてわきに置かれ、シチーにはプラスチックのスプーンが刺さっていて、携帯の光のなかで、容器から細い湯気が立ちのぼっている。
彼は一秒だけ湯気を見る。それから、バッグを肩に、階段、今度は何も言わずに抜ける入口、そして雪。入口から門まで、行きと帰りの彼の足跡が二本続いていて、ほかには誰の足跡もない。
十月二十日
ラリーサ・ペトローヴナがケーキを切るのは零時半で、店にはもう夜勤のタクシー運転手がふたり座って、音を消したホッケー中継を見ている。彼女はクリームが生地みたいに白っぽいとぼやき、たったひとりの男が祝いの席に遅れてくるんだからこれも当然の報いだね、とこぼす。クリームのバラがのった一切れを容器に入れ、シールを貼り、マーカーで「41」と書く。「あんたのおばあさんに。うちでもお祝いしてるって知らせてあげな」。ナイフをふきながら、彼女は、以前あの棟の女の人が夕方になると小さなミルク缶を提げて自分でシチーを買いに来ていて、いつのまにか来なくなったことを思い出す。それがいつだったのか、どんな顔の人だったのか、どうしても思い出せなくて、彼女は腹を立てる。バラののった容器を、バフティヨルは朝までほかの注文と一緒にバッグに入れて運んでまわる。
翌朝、ゴルデーエフカにあるふたりのワンルームで、ファッルフが作業ズボンのまま窓辺に立ち、そのケーキを容器から直接スプーンですくって食べている。食べながら、現場監督がまた土曜の分を払わなかった、コンクリートも八時に来るはずがまた昼になった、とこぼす。食べ終わると、ふたを光にかざしてマーカーの字を読み、四十一って何だと訊く。女のお客さんだよ、常連の、とバフティヨルは言ってシャワーに入り、ファッルフがドアをたたいて、今月はもう水道代が千ルーブルもよけいにかかってるんだぞ、と怒鳴りだすまで、長いこと湯の下に立っている。
朝九時、苦情は取り消されたとアプリが知らせてくる。お客様が商品の受け取りを確認し、三百ルーブルのチップを残したという。評価は前と同じ四・九のままだ。ウルグトの妹からボイスメッセージが届き、笑いながら、宝石店でイヤリングを片方つけさせてもらった、もう片方は月末まで取っておいてくれるって、と言う。ファッルフは、なんで上着を着たまま寝てたんだと訊く。昼までに雪はすっかり溶けてしまう。夜の雪は根づくとラリーサ・ペトローヴナの母親は言っていたのに、カナヴィノの通りには雪解け水が流れ、ポプラは濡れて、相変わらず黄色いままだ。
その夜、二十三時三十一分、ポケットのなかで携帯が震え、それを聞きつけたラリーサ・ペトローヴナがコンロの前から黙って棚の容器を下ろす。画面にはプリャジーリナヤ通り十四番地二号棟、四十一号室。シチー二人前、スメタナ別添え。配達員へのメモ。「チェーンは、もうかけません」
ラリーサ・ペトローヴナが袋に二つ目の容器を入れ、バフティヨルはその袋を、持ち手をふたつともつかんで受け取る。