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資料番号 № 0006

門灯

「停電受付センター、大西が承ります」

電話の男は言った。「冷蔵庫から水が垂れてるんだよ。もう三時間だ。なのにあんたらは同じことばっかり、復旧中、復旧中って。窓の外、見てるのか?」

美香は地図を見ていた。停電の地図は、天井から机のあいだの低い仕切りまで、部屋の壁一面を占めていて、夜の十一時半には、木曽谷が峠から県境まで真っ赤になっていた。川沿いにだけ、作業班がもう入っているところを示す黄色い点が一列に続いている。美香はその男にも、それまでの二十人に言ったのと同じことを言った。風で倒れた木が電線にかかっている、班は夕方のうちに出ている、こんな天気では電柱に上がれない、復旧の時刻はお伝えできない。男は、三十年電気代を払ってきたんだと言って電話を切った。美香は受付を記録し、ペットボトルの冷めたお茶をひと口飲んで、画面の隅の時計を見た。二十三時四十一分。勤務が終わるまで、まだ六時間以上あった。

右の仕切りの向こうでは、受付にいちばん長くいる佐藤さんが、子どもや酔っぱらいに話しかけるときのやわらかい声で誰かに答えていた。当直責任者の近藤は、自販機の熱い缶コーヒーを手に通路を行き来し、ときどき誰かの机の横で立ち止まって、やりとりに耳を傾けていた。

二十三時四十三分、その晩はじめて回線が途切れ、佐藤さんがヘッドセットを片耳だけずらして仕切りから顔を出した。「大西さんの家も、たしか木曽のほうだったよね。壊すの?」

もう壊すところです、と美香は言った。朝の八時に、うちの会社の班が来て引込線とメーターを外し、九時には重機が入る。書類は九月のうちに郵送で出してあって、町から補助金も出た。

「自分は行くの?」

行かない、と美香は言った。勤務は六時までだし、そのあとは寝る。佐藤さんは首を振った。「うちも去年、親の家を壊したんだけど、わたしも行かなかった。兄が半年口をきいてくれなくてね。そのあと写真を送ってきたの。庭の真ん中に、お風呂の浴槽だけぽつんと残ってるの。青いやつ、うちの。まあね」佐藤さんの回線が点滅し、彼女はヘッドセットを耳に戻した。

次の電話が入ったのは二十三時四十四分だった。

「停電受付センター、大西が承ります」

受話器の向こうは少し黙り、それから年寄りの女の声が、山の年寄りらしくのんびりと言った。「夜分にすみませんねえ。電気だけは消さないでもらえますか。門灯。ほかには何もお願いしませんで」

いま家に電気はきていますか、と美香はいつものように訊いた。

「きてる、きてる。門灯がついとるもんで。だから電話したんですよ。嵐のときは火事にならんように、そちらで消すって聞いたもんで。あれは消さんでおいてくださいな」

美香は耳を澄ました。声の後ろには、音がしているはずだった。谷ではもう三時間、雨が降りつづき、地図の上の風はオレンジ色で、その晩谷から電話してきた人はみな、屋根を叩く雨の音に負けまいと叫んでいた。年寄りの声の後ろは静かで、あたたかく、その静けさのなかでセミが澄んだ声でむらなく鳴いていた。カナカナカナ。八月の夕暮れ、村で物干しから洗濯物を取りこむころに鳴くヒグラシの声だ。美香はその声を聞いて育ったから、十月にはヒグラシはとっくに鳴きやんでいることを知っていた。テレビがついているのだろう、と美香は決めた。

供給地点特定番号をお願いします、検針票の上のほうにある二十二桁の数字です、と美香は言った。「ちょっと、ちょっと待ってね、眼鏡、眼鏡」年寄りは何かを動かし、紙をがさがさいわせ、そのあいだもずっとセミは鳴いていた。それから一桁ずつ、間を置きながら読みはじめた。孫に字を一つずつ読んでやるときのように。「ゼロ、よん、さん、いち……」その先も同じようにゆっくり読み、美香は打ちこみ、最後の一桁で、もうその番号がシステムにあることがわかった。画面が灰色で開いた。供給地点廃止、二〇一九年三月十四日。理由、お客さまからの申し出、死亡または転居。

美香は住所を訊いた。年寄りが集落の名前を言ったとき、美香の指が一瞬キーボードの上で止まった。年寄りは続けて番地を言い、バス停のすぐそば、昔バスが折り返したところだと言ってから、つけ加えた。「門灯はね、うちのじゃないですよ。道の向かいの、大西さんとこの門の。持ち主の人が家の電気を外してくれって頼んだそうで、明日の八時に来るって。そうしたら消えちまうでしょう。だから、消さんでくれって電話したんですよ」

その住所を美香は知っていた。吉田家の敷地は美香の家の道向かいで、吉田のおばあちゃんは、ブリキの缶から煎餅を出してくれて、美香が庭の花を摘んでも母には黙っていてくれた。大西の家はその向かいにあり、黒ずんだ杉の門があって、柱には、美香が小学校に上がった年に父が取りつけた門灯がついていた。この三年、美香は泥棒よけと近所の噂よけに、いちばん安い料金をカードで払って家の電気をつなぎっぱなしにしていたが、そこで何かが灯っているのかどうかは知らなかった。最後に行ったのは、おととしの春だ。母はもう三年、松本の老人ホームにいて、会うたびに、門の戸締まりをしたかと美香に訊いた。

「そちらは吉田さんのお宅ですか」と美香は訊いた。「家はね、わたしの家ですよ」と年寄りは言い、それが答えなのかどうか、美香にはわからなかった。受付のためにお名前をと言うと、年寄りは小さく、気を悪くしたふうもなく笑った。「名前なんか、どうでもいいでしょう、あんた。バス停のとこって書いといて」

少々お待ちください、切らずにそのままで、と美香は言い、保留ボタンを押した。セミの声が消え、ヘッドセットのなかで三つの音の保留音が鳴りはじめた。受付担当が身内の契約を開くことは禁止されていて、そういうログインはシステムがひとつ残らず記録する。入社した日から美香はそれを知っていた。美香は母の名字と住所を打ちこんだ。画面が白く開いた。生きている契約だった。大西節子、代理人 大西美香、最低料金、カード払い。いちばん下に作業依頼が出ていた。所有者申し出による引込線・計量器撤去、解体前、十月二十一日八時〇〇分、木曽営業所班。

美香は「日程変更」を押した。システムが当直責任者の承認を求めてきた。

近藤はすぐに来た。もともと机二つぶん先に立っていたのだ。画面をのぞきこみ、名字を読み、美香の名札を見た。それから小さな声で言った。「大西さん、これはあなたの家ですか」

近所の人から電話なんです、お年寄りで、門灯を外さないでほしいって、と美香は言った。

「身内の案件には触らない。わかってるでしょう。一般窓口は八時から。みんなと同じようにそっちへ電話してください」近藤は自分で画面を閉じ、そのログインは美香の社員番号で記録に残った。近藤は待ち人数の表示板をあごで示した。四十一人が順番を待っていた。近藤は通路の先へ歩いていった。八時には、班はもう電柱の上にいる。

美香は保留を解いた。セミはそこにいた。

「おばあちゃん、その門灯、何に要るんですか。夜中だし、嵐だし。もう休んだほうがいいですよ」

年寄りは言った。「わたしが要るんじゃないの。あの明かりの下に女の子が立っとるんですよ、バス停のとこに。毎晩立って、最終バスを待っとる。お母さんが町からそれで帰ってくるもんで。消されたら真っ暗になっちまう。あそこは側溝があるでしょう、ね」

その子はいくつくらいですか、と美香は訊いた。

「八つくらいかねえ。ちっちゃい子。黄色い通学帽をかぶってね、あれは一年生にみんな配るんだけど、あの子は二年生になってもかぶっとって、脱がないの。傘を持ってね、骨が一本折れて飛び出しとるの。目を突くよって、何べん言ったかしれん。それで、つま先を明かりのほうに向けて、きちんと立っとる。明かりが切れる、ちょうどその縁に、つま先を揃えて。運転手さんにそうしろって言われたんだって。遠くからでも見えるように」

仕切りの向こうで、佐藤さんの電話の相手が、若い声で泣いていた。美香は壁の赤い谷を見つめたまま、あまり長く黙っていたので、年寄りが、聞こえとる?と訊いた。

「おばあちゃん、その路線は廃止になったんです。もう十年くらいになります」

年寄りは言った。「言ったんですよ、あの子にも。信じないの。お母さんが来ないもんで、待っとるの。誰かが迎えに行ってやらんと、ねえ」少し黙り、受話器を反対の耳に持ちかえる音がした。「ほら、いま何時って訊いとる。あんたから言ってやって。わたしの言うことは、もう聞かんもんで」

美香は画面の隅を見て、受話器に向かって、必要以上に大きな声で言った。「十二時十分前」年寄りは待っていて、美香はつけ足した。「もうすぐ来るよ」

年寄りはそばにいる誰かに言った。「ほうら。聞こえた? もうすぐだって」

子どもが夜中にひとりで外にいるなら、警察に連絡したほうがいいかもしれません、と美香は言った。年寄りは天気の話でもするように落ちついて答えた。「警察には見えんですよ。あの子が見えるのは、わたしだけ。門灯も、わたしがつけとるの。でも、もうしんどくてねえ。わかるでしょう。わたしも、もう横になりたいの」

向こうのどこかで戸がきしみ、セミの声が大きくなった。縁側の障子を開けたときのように。二十三時五十七分、通話は十三分目に入っていた。近藤がまた仕切りのところに立っていて、ヘッドセット越しに聞こえるくらいの小声で言った。「大西さん、締めてください。四十人です」

すべて記録しました、朝まで門灯は誰も消しません、おばあちゃんはもう休んでください、と美香は言った。

年寄りの声が、垣根越しに身を乗りだす近所の人のように、あたたかく、ふだんの声になった。「ありがとうね、あんた。美香ちゃん、あんたはいつも夜勤だもんね。もう、おうちにお帰り。あの子、あんたのこと待っとったんだよ」

美香は自分の下の名前を言っていなかった。受付は名字しか名乗らないし、通話のはじめに、いつものように名字だけを名乗った。「どうして……」と言いかけて、美香は言葉を切った。

受話器のなかでセミが鳴いていた。年寄りはもう何も言わなかったが、回線も切れなかった。遠いその場所は、雨も風もない、あたたかい夕方で、電話のそばのどこかで、雨樋から樽に水がしたたっていた。近藤がペンで仕切りを叩いた。三十秒ほどして、回線がかちりと鳴り、ひとりでに空いた。画面には番号が残った。市外局番は谷の〇二六四。美香はかけ直さなかった。

骨の折れたその傘を、美香は二年使った。新しいのを町で買ってくると母は約束しては、いつも忘れた。明かりの縁につま先を揃えて立つことを教えてくれたのは、最終バスの運転手だった。白い手袋をした禿げ頭の人で、霧の日は靴しか見えないんだと言っていた。母は町から吉田家に電話をかけてきて、美香は庭を突っ切って走っていった。母は受話器の向こうでいつも同じことを言った。もうすぐ帰るからね。美香はバス停に行き、さらに一時間、ときには二時間待った。バスが空のまま着くと、吉田のおばあちゃんが懐中電灯を持って迎えに出てきた。

美香は、その受付票を閉じるのに長い時間をかけた。「結果」の欄で「対応不要」を選び、コメントに「高齢のお客さま、検針票の読み違い」と打った。廃止になった供給地点の番号を、点検部門には回さなかった。規則では、廃止地点が停電地域で生きていれば、すぐにそちらへ回すことになっていて、翌朝には自家配線を切りに車が出る。夜中の三時、仮眠室へ向かう途中の近藤が美香の机の横で立ち止まった。うちの母も職場に電話してきて、大阪の家のガスを止めたかって訊くんですよ、二十年前に売った家なのに、と近藤は言った。母親の契約のことは、何も言わなかった。

朝までに、美香はさらに六十件の電話を受けた。四時ごろ、谷に最初の黄色い点が上がり、五時には地図の上の風が緑色になった。八時〇〇分の作業依頼は、木曽営業所の一覧の四行目に残ったままだった。

勤務は六時に終わった。水たまりが縁まで満ちた駐車場から、美香は木曽営業所の当番に電話した。眠そうな男が、依頼は生きている、取り消せるのは所有者だけで、一般窓口から、八時以降だと言った。わたしは所有者の娘で、契約の代理人です、と美香が言うと、男は、それならなおさら八時以降です、と答えた。美香は国道19号を南へ、川沿いに走った。閉まった道の駅の前を過ぎ、倒木のそばで回転灯をつけた作業車の横を過ぎた。七時四十一分、上下の車線をふさいで倒れた杉の前で車を止め、オレンジ色のヘルメットの若者たちがそれを切り分けるのを見ていた。ひとりが誘導灯を振って、路肩をよけて通れと合図した。まだ子どもみたいな顔で、彼も夜通しの作業明けだった。集落までは、あと橋が二つと、古い小学校の脇の上り坂だった。助手席の携帯は鳴らなかった。松本では、ちょうどいま、母が朝食のために起こされているころだった。

七時五十二分、美香は霧のなかを集落に入った。谷の電気はまだ戻っておらず、入口の信号は暗いまま吊るされていた。吉田の家は、もとのバス停のそばに建っていた。窓には板が打ちつけられ、門には色あせた不動産屋の看板が掛かっている。バスが折り返していたコンクリートの広場は、縁がすすきに覆われていた。向かいの大西の門の前には、バケットを上げた電力会社の白い作業車が停まっていて、ヘルメットの班長が運転席の横でたばこを吸っていた。

門灯はついていた。美香が小さかったころと同じように、むらなく、黄色っぽく灯り、その下の濡れたアスファルトに明るい輪を落としていた。その先は、霧のなかで、もう何も見えなかった。

班長はたばこを消して言った。「大西さん? 来てくれてよかった。お宅の引込線は夜中から電気がきてないんですよ、線ごと死んでる。なのにあれがついてるもんで、上がらずにいたんです。それに、女の子が立ってたんですよ。七時四十分に着いたら、もう門灯の真下にいてね、黄色い帽子で。迎えが来るまでと思って待ってたんです。お宅の子?」

美香は明かりの輪を見た。その縁、明かりが切れるところの濡れたアスファルトには、誰もいなかった。

美香は言った。「うちの子です。迎えに来ました」