資料番号 № 0012
細道
細道が現れたのは、初霜の降りた夜だった。その年は霜が早く、十月七日に降りた。晩生の黄色いりんご、シナノゴールドがまだ枝に残っていて、もぐには早すぎる時期だった。京子は五時半に縁側へ出た。二十年間、毎朝そうしてきたとおりに、麦茶の魔法瓶を持ち、寝間着の上に夫の古い上着をはおっていた。父から継いだりんご畑は、家から三段の段々畑になって村の道まで下り、道の向こうは千曲川で、川の上には霧がかかっていた。木の列のあいだの草は一面霜で白く、平らに毛羽立っていた。その白さを、下の木戸から七列目まで、黒っぽい筋が一本だけ横切っていた。
京子は魔法瓶を手すりに置いた。そこだけ塗装が、魔法瓶の底とちょうど同じ大きさの輪になってはげている。京子は長いあいだ見ていた。朝の霜の草を一度でも歩いたことがある人なら知っている。足跡は濃い緑色に濡れて残り、日が霜をとかすまで消えない。筋は道に面した下の木戸から始まり、七列目に沿って細く、足一つ分の幅で続き、柵の手前の最後の木で終わっていた。それは、ふじという品種の古いりんごの木だった。京子が生まれた年に、父が植えた木だ。京子と夫の康弘がこの木を抜かずにいるのは、今でも斜面でいちばん甘い実をつけるからにすぎない。
京子は、いつも戸口につま先を壁に向けて置いてあるゴム長靴をはき、畑へ下りた。幹のそばでは、足跡が一つの場所で小さな輪を描いて何度も回っていた。そこの草は土が見えるまで踏みつぶされていた。人が長いあいだ立って、誰かを待っていた場所はこうなる。そこから細道は同じ道筋で木戸へ戻っていた。京子はその上を、知らない足跡に自分の足を重ねながら歩き、木まで百四十歩、帰りも百四十歩と数えた。隣の家の季節労働者がバスまで近道をしたのだろう、と京子は考えた。けれども、この道にはもう五年もバスは通っていない。それに木戸は針金の輪で留めてあり、京子が毎晩自分でねじって閉めている。朝見ても、輪はいつもの京子のやり方どおり、三回ねじってあった。
康弘は七時に起きた。霜はもうとけていて、康弘は何も見なかった。七列目の黒い筋はいちばん長く残った。柵の影がそこに落ちるからだ。それでも七時には消えていた。朝ごはんのあいだ、康弘はりんごの値段の話をし、木箱のことで農協に電話しなければと言った。京子は何も言わなかった。
その晩、京子はいつものように木戸の輪を三回ねじり、その上から赤い洗濯ばさみを挟んだ。朝になると、細道はまた白い草の上に通っていて、洗濯ばさみは京子が挟んだ場所にそのままあった。そのとき京子は決めた。誰が自分の畑を歩いているのか、自分で突きとめる。それも、夫より先に。
* * *
霜の降りる朝には、きまって細道が現れた。ある夜は雨が降り、朝の草はただ濡れているだけで、足跡はなかった。京子は冷めた麦茶を持って縁側に立ち、なぜこんなに残念なのか、自分でもわからなかった。次の夜にはまた冷えこみ、筋はふたたび白い草の上に、同じ形で、古いふじの下の同じ踏みつぶした輪とともに現れた。康弘が眠っているあいだ、京子は毎朝、自分の長靴でその上を歩いた。康弘が起きるころには霜がとけはじめ、京子の足跡も知らない足跡も、同じ濡れた草になった。
夜になると、康弘は音を消して野球を見た。解説者が嫌いだからだ。京子はその隣で縫い物をしながら、暗い窓を見ていた。窓には電灯と、ソファに並んだ二人が映っていた。京子は早く朝が来るように、寝る時間を早めた。縁側へ出ると、まず七列目に目がいった。筋がある日は仕事がはかどり、京子は鼻歌をうたった。一度、何を笑っているのかと康弘に聞かれ、京子は、今年はりんごの出来がいいからと答えた。
隣の服部じいさんに、京子は垣根越しに、夜中に道で誰か見なかったかと聞いた。服部は少し耳が遠かった。手を耳にあてて二度聞き返し、それから、夜は寝ている、朝の五時にラジオをつける、五時まではこの世に誰もいないのと同じだ、と言った。京子は畑のいちばん下を柵に沿って歩いたが、柵の破れ目も、外側の踏まれた草も見つからなかった。知らない足跡は、木戸の内側から始まっていた。
十月二十日ごろ、シナノゴールドの収穫が始まった。京子と夫は、農協が二週間よこした三人の学生といっしょに働いた。京子は七列目ではしごに立ち、編みかごを腰に下げていた。そこから、古いふじの曲がった幹と、根元の踏みつぶされた輪を見下ろした。思い出すことを、ずっと前に自分に禁じていた。それでも思い出した。十六のころ、京子は夕方になると、父が家でテレビを見ているあいだに、下の木戸を通ってこの木の下に来た。木の下では、同級生の木下誠二が待っていた。誠二は幹のそばで足を踏みかえながら、兄からくすねた煙草を吸っていた。
ある日、誠二は、卒業したら東京へ行く、おまえもいっしょに来いと言った。京子は行かなかった。父が病気で、畑をまかせる人がいなかった。京子は近くの上田の農業学校に進み、六年後に康弘と結婚した。康弘は当時農協に勤めていて、父の収穫を数えに来ていた人だった。いい人生になった。何かを悔やんでいると、京子は誰にも言ったことがない。自分自身にも言わなかった。
学生たちが帰り、畑にはふじだけが残った。赤く重いふじは、もっと遅くもぐのだ。細道は毎朝現れた。
* * *
土曜日、京子は国道沿いのスーパーへ車で出かけた。レジにいたのは同級生の夏子だった。太っていて声が大きく、老眼鏡をひもで首から下げている。豆腐と洗剤をレジに通しながら、夏子はついでのように言った。
「そういえば、木下誠二くん、帰ってきてるよ。覚えてる?」
京子はうなずいた。夏子はスキャナーから目を上げずに話しつづけた。誠二は離婚して、妻と子どもは東京に残った。誠二は父親の世話をするために、となり町の佐久に帰ってきたのだという。木下のおじいさんは脳卒中で片腕がきかなくなっていた。
「でも、長くはいないって」と夏子は言った。「土曜日、三十一日に、お父さんを長野の施設に入れて、自分は東京に戻るんだって。家も売るらしいよ。薬局で見かけたけど、すっかり白髪でね。でも、すぐわかった」夏子は眼鏡の上から京子を見た。「あんたたち、仲よかったよね?」
京子は、昔のことだからと答え、おつりを受け取らずに店を出た。車の中で、京子は長いあいだエンジンをかけずに座っていた。土曜日まであと一週間ある。ラジオはほとんど毎朝霜が降りると言っていた。佐久からうちの前の道までは、車で二十分だった。
京子は遠回りになるのに佐久を通って帰り、線路わきの木下の家の前を通った。その家は学生時代から知っている。誠二と二人で、よく自転車で来たのだ。屋根は青いトタンにふき替えられ、門の前に小さな灰色の車がとまっていた。京子はスピードを落とさなかった。家はミラーの中でだけ、カーブの向こうに見えなくなるまで見ていた。
その晩、京子は長いあいだ窓から、暗い畑と木戸を見ていた。誰かが畑を歩いていると康弘に話すべきだった。警察を呼び、木戸に南京錠をかけるべきだった。京子は何もしなかった。夜中の三時過ぎに目が覚めた。胸がどきどきしていた。京子は横になったまま、隣で眠る夫の寝息を聞いていた。窓には近づかなかった。歩いている誰かを驚かせて、来なくなるのがこわかった。朝、細道は畑を横切って、新しく黒々と通っていた。
次の夜、京子は目覚ましを四時にかけた。明かりをつけずに洗面所へ行き、赤い口紅をひいた。友だちの娘の結婚式のときに買って、それきり一度もつけていない口紅だった。鏡の中から、赤い唇をして耳の上に白髪のひと筋ある四十七の女がこちらを見ていて、京子は頬が熱くなった。京子は口紅をタオルでふきとり、寝床に戻って、夜が明けるまで眠らずにいた。
朝、古いふじの下の踏みつぶされた草の中で、京子は口紅を見つけた。安っぽい金色のケースで、文字が半分すれて消えていた。中の口紅は濃いプラム色で、京子が一度もつけたことのない色だった。その晩、康弘が風呂に入っているあいだに、京子はケースを開けた。そして、知らない誰かの唇で斜めにすり減ったプラム色の芯を、長いあいだ見ていた。それからふたを閉め、裁縫箱の中に隠した。
* * *
十月三十日の朝、ラジオは、今日は初恋の日だと言っていた。ちょうど百三十年前、詩人の島崎藤村が、りんごの木の下の少女をうたった詩「初恋」を発表した。藤村がかつて教師をしていた山の下の町では、それを記念して朗読会が開かれるという。京子はそれを、隣の家から聞こえるラジオで聞いた。服部じいさんが朝の五時に、音を最大にしてラジオをつけるのだ。そのとき京子はもう、古いふじの下に立っていた。
京子は四時半に、暗い中を、夫の上着と長靴で出てきた。白い草の上には、知らない細道と並んで、京子自身の細道が残った。木戸の輪は、前の晩に一回だけねじっておいた。道から開けやすいようにだ。口紅はつけなかった。京子は幹のそばの踏みつぶされた輪の上に立ち、待った。しばらくして、京子は自分が一つの場所で小さく足を踏みかえているのに気づき、やめた。それからまた始めた。足の指が冷たかったからだ。
その朝の霜は強かった。長靴の下で草が鳴り、枝には白い霜の針がびっしりついていた。その白さの中に、赤いりんごが霜をかぶって重く下がっていた。千曲川の上の霧が、桃色に染まりはじめていた。服部の家のラジオでは、女の声が詩を朗読していた。詩の中で、若者はりんごの木の下に少女を見る。少女は初めて大人のように髪を結い上げ、花櫛を挿している。そして若者にりんごを差し出す。京子は学校でこの詩を覚えた。みんな暗唱させられたのだ。三連目でラジオが急に黙り、言葉の途中で切れた。京子は静けさの中に立って、最後の連のことを考えた。りんご畑の木の下に、おのずとできた細道がある。少女は、その細道を最初に踏んだのは誰かと問うのだ。
六時十五分前、下の木戸のそばの道に車が止まった。小さな灰色の車で、佐久の家の門の前にとまっていたのと同じ車だった。ライトが消え、ドアが閉まる音がした。黒っぽい上着を着た、白髪で背の丸い男が降りてきて、木戸の前で立ち止まった。男は畑を見た。白い草と、自分の足もとから七列目に沿って延びる黒い細道を見た。足を踏みかえながら立つその姿で、京子は誠二だとわかった。誠二は針金の輪をほどき、畑に入ってきた。
誠二は足もとを見ながら、ゆっくり細道を歩いてきた。そして三十歩ほど来たところで顔を上げ、京子を見た。誠二は立ち止まった。京子は幹から離れて一歩、誠二のほうへ踏み出した。名前を呼ぼうとして、やめた。誠二の顔を見たからだ。その顔は灰色で、急に老けこみ、口が半分開いていた。誠二はまばたきもせずに京子を見つめていた。細道の端で足を踏みはずしかけたときも、目を離さなかった。
「まだ、ここにいたのか」と誠二は小さくつぶやいた。誠二が京子を見る目は、京子がこの三週間、細道を見ていた目と同じだった。
それから誠二はあとずさった。京子に背を向けないまま木戸まで後ろ向きに下がり、そこでやっと向きを変えて車へ走った。不格好な、年寄りの走り方で、霜に足をすべらせていた。車は二度目でエンジンがかかり、佐久のほうへ走り去った。京子はエンジンの音がすっかり消えるまで、りんごの木の下に立っていた。そしてそのとき初めて、手にりんごを一つ持っているのに気づいた。下の枝からもいだのだが、いつもいだのか覚えていなかった。
* * *
京子が戻ると、康弘が台所にいた。ランニングシャツ姿でコンロの前に立ち、二つの湯のみにお茶をついでいた。ふだん康弘は七時に起き、お茶をつぐのは京子の役目なのに。康弘は京子の前に湯のみを置き、向かいに座って、京子が湯のみで手を温めるのをしばらく見ていた。京子はりんごを二つの湯のみのあいだに置いた。りんごはそこでとけていき、片側の霜が黒ずんで流れ落ちた。
「どうして夜中に出ていくんだ」と康弘は静かに聞いた。木箱のことで農協に電話したかと聞くときと同じ口調だった。「もう二週間になる。三時に起きて、服を着て、表の門から道に出て、下の木戸まで歩いていく。一時間たつと戻ってきて、また寝る。眠れないんだろうと思ってた。年のせいだろう、おふくろもそうだった。聞かないでおこうと思ってたんだ」
京子は戸口の長靴を見た。長靴は濡れていて、草の葉がはりついていた。毎朝、京子は長靴が濡れているのを見て、毎朝、朝の細道歩きで濡らしたのだと思っていた。京子は木戸の輪を思い出した。三回ねじってあった。そんなふうにねじるのは京子だけだ。赤い洗濯ばさみも思い出した。京子のほかに誰も触れていなかった。何も覚えていない、と夫に言いたかった。細道は七日にはもうあった、いちばん最初の夜、夫の言う二週間より一週間も前に、と言いたかった。誠二のことも、口紅のことも、百四十歩のことも話したかった。京子はお茶をひと口飲み、ほんとうに眠れなくて、たぶん年のせいだと言った。
昼すぎ、二人はいちばん上の段でふじをもいだ。京子は空のかごを夫に渡し、夫の冗談に笑った。七列目の古いふじには手をつけなかった。あの木はいつも最後にもぐのだ。四時ごろ、日が山の向こうに沈み、畑がいっせいに青く暮れたとき、下の道を小さな灰色の車がゆっくり通りすぎ、止まらずに行った。京子はかごを持ったまま、康弘に二度目に呼ばれるまで、その車を見送っていた。
夕方、京子は下の木戸まで下りていき、針金を手にとった。けれどもねじらず、輪を柱にかけただけにした。長靴は、つま先を外に、戸口のほうへ向けて置いた。朝早く畑へ出るつもりのときに置くやり方だ。それから横になり、すぐに眠った。もう何年も、そんなふうに眠れたことはなかった。
朝、京子は魔法瓶を持って縁側へ出た。霜の上には細道が二本あった。一本は縁側の前から、もう一本は下の木戸からで、二本とも七列目へ続いていた。木戸の外の道には、タイヤの跡が黒く残っていた。長靴は戸口に、乾いたまま、つま先を壁に向けて置いてあった。