資料番号 № 0014
返送
ノヴィ・サドから来た瓶を、クシューシャは紙ナプキンでふいて、瓶にあやまった。この詰所に来た最初の日から、クシューシャはそうしていた。ブラーギンもそれをとがめなかった。ブラーギン自身、とうに小包に話しかける癖がついていて、声に出さないだけだった。
小包が届いたのは土曜日、夕方六時を少し過ぎたころで、勤務が終わる一時間前だった。X線検査装置には、ガラスとオレンジ色のかたまりが映った。有機物だ。灰色のセルビアの新聞の下に、一リットル瓶に入った色の薄いはちみつがあった。ポリエチレンのふたは、赤い輪ゴムでとめてあった。はちみつがもれて、瓶の外側がべたついていた。
「もれてますね」とクシューシャが言った。「コトワさん、仕分けにもう三回も電話してきてるんです。お母さんがせきに効くはちみつを送るって約束したんですって。これは待ってる人がいるんですよ、スタニスラフ・ユーリエヴィチ。あしたもまた電話してきます」
ラベルには、受取人V・P・コトワ、住所は同じこの町の、川の船着き場に近い通りとあった。差出人はノヴィ・サドのZ・I・コトワだった。
はちみつは自家製で、表示がなく、獣医の検査のあと、小包は差出人への返送に回された。ブラーギンは上級検査官として調書に署名し、瓶を返送棚のいちばん下の段へ運んだ。干しきのこの箱と、封の切られていない手紙の束のあいだだ。返送品の袋は、月曜の朝七時にクシューシャが封をして、九時にはモスクワの国際交換局へ運ばれていく。
十五年前、彼はこの棚からオレンブルクの毛糸のショールを持ち帰った。フィンランドから送られてきたもので、宛先の人はそのときにはもう転居していた。トーニャは今もそのショールを使っている。妻の肺の病気には長い名前があって、医者はそれをアルファベット四文字に縮めて呼んだ。夜になると、妻は長いこと、途切れ途切れにせきこんだ。ブラーギンはとなりに横になって、せきがおさまるのを待った。トーニャの母親は、せきにはいつも温かい牛乳にはちみつを入れて飲ませた。トーニャはそれを信じていた。
勤務が終わり、クシューシャが着がえているあいだ、ブラーギンは台帳のために残った。空港のそばの仕分けセンターにあるこの詰所に、ブラーギンは二十九年勤めてきた。返送棚には、受け取り手のいない小包や受け取りを拒まれた小包が集まり、どのみちモスクワで廃棄処分になる。そこから何かを持ち帰ることはめったになく、持ち帰るのも少しずつだった。手回しのコーヒーミルのときもあれば、玄関に敷くトルコの細長い敷物のときもあった。台帳のなかで、そういう小包は「差出人に返送」の一行になって出ていった。瓶はピャチョーロチカのレジ袋に移した。通用口ではクシューシャがたばこを吸っていた。クシューシャは彼の手もとに目をやり、彼が車に乗るまで見ていた。
袋は助手席に置いた。最初の信号でブレーキを踏んだが、袋は背もたれに押しつけられたままだった。二つ目の信号では、もっと強くブレーキを踏まなければならなかったが、袋は少し震えただけだった。
残りの道は、瓶をひざにのせ、片手で押さえて走った。瓶は、戸口から引きはなされる犬のように、腹に突っぱってきた。曲がり角のたびに、それでも瓶は後ろへ、詰所のほうへ引っぱられた。帰り道のあいだずっと、ミラーで誰もいない通りをうかがっていた。
二人の部屋は三階で、玄関のドアは、路面電車の終点の向こうに空港がある側を向いている。トーニャはもう眠っていた。瓶は台所のテーブルの、細かいチェックのビニールクロスの上に置いて、手を洗いに行った。戻ってくると、瓶はテーブルの端、玄関の側に立っていた。瓶を真ん中に戻し、向かいに座った。
五分ほどして、瓶は動きだした。クロスの上を、ひとマスずつ、ゆっくりとドアのほうへ進んでいく。ブラーギンは砂糖つぼを前に置いた。瓶はそれにぶつかり、砂糖つぼもいっしょにすべっていった。砂糖つぼをどけて、瓶を両手で包んだ。引く力は強くはなく、いつも同じ方向、出口のほうだった。
瓶は冷蔵庫にしまった。夜中に、台所から細い電子音がして目がさめた。とぎれとぎれの、冷蔵庫の扉が開いたままのときに鳴る音だ。となりではトーニャが眠りながらせきをしていて、ベッドのそばで酸素の機械がうなっていた。
ブラーギンは起きて、暗いなかを台所へ行った。冷蔵庫から床に光がひとすじのびていた。扉が指一本ぶん開いていた。手のひらで扉を押しつけると、扉ごしに、瓶が内側から押しかえしてくるのがわかった。強弱もなく、ずっと同じ力で押している。電子音はやんだが、瓶は押しつづけていた。スツールで扉を押さえ、長いあいだそのそばに立っていた。
朝になると、スツールはわきへずれていて、冷蔵庫の扉はまた開き、瓶がすきまにはさまって、パッキンにめりこんでいた。トーニャがガウンを着て、毛糸のショールを肩にかけて台所に出てきて、すきま風がすると言った。ブラーギンは窓を見た。窓枠は閉まっていて、ガラスの向こうはまだ十一月の暗さだった。それからショールに目をやった。片方の肩の房飾りは、いつものように垂れていた。もう片方の房は、ガウンから浮いて、玄関のほうへのびていた。
「スタス、どうしたの」とトーニャが言った。
なんでもないと答えて、玄関へ出た。トルコの敷物がゆがんでいた。手前の端は敷居から手のひらひとつぶんずれ、向こうの端は玄関のドアのところでめくれあがっていた。コーヒーミルは棚の端、出口に近いほうにあった。妻がボタンを入れているコーヒーの缶は、戸棚の扉のそばで横倒しになっていた。その缶は昔イタリアから送られてきたもので、廃棄になるまで棚に置かれていた。
トーニャがいつもソファのそばに脱いでおくスリッパが、玄関のドアのすぐ前にあった。そのスリッパは、トーニャが自分で市場で買ってきたものだ。ブラーギンはスリッパをソファのそばに戻し、足で押さえた。
朝七時に、ブラーギンははちみつを返しに行った。今度は瓶が道中ずっと前へ、詰所のほうへ突っぱり、最初にブレーキを踏んだとき、足もとのマットにすべり落ちた。クシューシャは日曜も当番だった。彼が瓶をいちばん下の段に置くあいだ、クシューシャは台帳から目を上げなかった。瓶はそこに落ちつき、もう動かなかった。ブラーギンが指でさわると、ガラスは冷たかった。
一時間後に家へ帰ると、寝室からうなる音がしていた。寝室のドアは、改装のときからなかった。ちょうつがいだけが残っている。濃縮器はベッド脇の小机から戸口のほうへ五十センチ動いていて、そこからのびたチューブがトーニャの顔までぴんと張っていた。カニューレが上くちびるまでずれて、トーニャは枕に半分身を起こし、両手でチューブを鼻にあてていた。
「勝手に動くのよ」とトーニャは言った。「引っぱっても、引っぱっても」
機械のコードは五メートルの延長コードにつないであった。寝室にはコンセントがひとつしかなく、それも洋服だんすの裏にあるからだ。ブラーギンは機械を引きもどした。車輪がまわらなかったので、百科事典を二冊、車輪の下にかませた。トーニャの息が落ちつくと、横になるのに手を貸した。機械の酸素チューブは、付属品の二メートルのものだった。
この機械は二年前、ステッカーだらけの箱に入ってドイツから空輸されてきた。受取人は取りに来ず、差出人は返送を断り、箱は廃棄待ちで棚にのった。トーニャに酸素が必要だと言われたのはそのころで、基金の順番待ちで、トーニャは四十三番目だった。基金が順番を飛ばして出してくれたと、ブラーギンは妻に言った。トーニャはうなずき、それきり基金の話はしなかった。通用口の警備員は箱のことを何もきかず、ドアまで押さえてくれた。何年もいっしょに働いてきたのだから。
昼まで、ブラーギンは品物を詰所へ返しに通い、そのあいだは下の階のガリーナ・ペトローヴナが妻についていてくれた。機械の車輪がゆるんでしまったので押さえていなければならない、と隣人には説明した。ボタンはトーニャの小物入れにあけ、ショールとコーヒーミルと空の缶をバッグに詰めて、上に丸めた敷物をのせた。詰所でクシューシャはバッグから出したものを、はちみつのとなり、いちばん下の段に並べ、台帳に書きはじめた。
ガリーナ・ペトローヴナが帰ったあと、彼はトーニャを玄関のドアのそばのスツールに座らせた。機械があれほどそこへ行きたがるのなら、と思ったのだ。そして濃縮器を転がしてあとに続けた。ドアのそばで、機械はおとなしくしていた。一分もすると、チューブがひとりでに張って、トーニャの頭を下へ、ドアの下のすきまのほうへ引いていった。そこから階段のすきま風が吹きこんでいた。カニューレがあごまでずれ、トーニャは頬をドアの合成皮革にあてて倒れかかった。ブラーギンは妻を抱きあげてベッドに運び、機械を小机のところへ戻した。
それから、玄関のドアをチェーンをかけたまま少し開けた。機械が寝室から玄関へ飛びだし、延長コードが洋服だんすの裏から張りつめ、ベッドのトーニャがチューブに引っぱられた。ブラーギンはすぐにドアを閉め、二つの鍵をかけた。
チューブを継ぎたしても無駄だった。引っぱっているのはチューブそのものだった。ドイツから箱に入ってきた、あのチューブだ。別のチューブが要る。まるごと自分たちのもので、五メートルくらいのが。「五メートルのはないんですよ、お客さん」と、路面電車の終点のそばの医療用品店の女の子が電話で言った。「入荷は火曜です。お名前、控えておきますね」薬局も、レンタルの店も、ネット通販も、やはり火曜と言った。売買サイトのアヴィートでは、誰も返事をよこさなかった。
となりのペットショップで水槽のエアポンプ用の細いホースを五メートル買った。ドイツのチューブをまるごと取りかえて、先はトーニャの鼻の下にばんそうこうでとめるつもりだった。ホースは細く、ほかにはなかった。家で試すと、継ぎ口にはまらなかった。
小鍋で湯をわかし、ホースの先を浸して、ビニールがやわらかくなるまで押さえていた。それから継ぎ口にかぶせはじめた。指半分、また指半分。ホースはぱちんと音を立てて、縦に裂けた。切れはしを台所の流しの下のバケツへ持っていく彼を、トーニャはベッドから見ていた。それからブラーギンは、上着も脱がずにスツールに座りこんだ。
ガリーナ・ペトローヴナがスープを持ってきた。「ほんとうに、機械の車輪がおかしいのね」と彼女は言った。暗くなるまで、ドアのほうへ行こうとするのは濃縮器だけになった。車輪の下の百科事典は、一時間に一、二センチずつリノリウムの上をずれていった。
機械も詰所へ返すことはできた。同じものを新しく買えば十万ルーブル近くして、ブラーギンの月給より高い。次の給料日まで、カードには五千ルーブルほどしか残っていなかった。レンタルの店には、火曜まで空いている機械がなかった。見つかったのは三百キロ先の一台だけで、引き取りに来るしかなく、そこの倉庫は週末は閉まっていた。ブラーギンが救急車を呼ぼうと電話を取ると、トーニャが目を開けた。
「救急車はいや。この前は……二日も廊下だった。ストレッチャーの上で。あそこで肺炎をもらったのよ。どこにも行かない」
それで彼は、戸口のそばの床に寝床を作ることにして、妻のわきの下を抱えて運ぼうとした。機械が百科事典を乗りこえて前へ飛びだし、チューブがトーニャをブラーギンの腕から引きはがし、頭のほうから玄関へ引きずっていった。ブラーギンはかろうじてガウンの帯をつかみ、妻といっしょにベッドの端に倒れこんだ。トーニャは彼の袖にしがみついた。
「もとのところに寝かせて」とトーニャは言った。「もう引きずりまわさないで。床には寝ないから」
クシューシャはすぐに電話に出て、まずこう言った。「スタニスラフ・ユーリエヴィチ、私、誰にも言ってません」
「いいんだ。クシューシャ、今夜トーニャを機械ごとそっちへ連れていくのはどうだろう。それとも、袋に今日封をするとか」
クシューシャは少し黙った。向こうのどこかで水がしたたる音が聞こえた。
「詰所に部外者は入れません。立ち入り制限区域ですし、カメラもあります。ご自分でも署名なさったでしょう。袋も早めるのは無理です。調書がありますし、車は九時ですから。私はいつもどおり、朝いちばんに行きます」
「わかった」と言って、電話を切った。九時に袋が運ばれていけば、放してくれるかもしれない、と彼は思った。詰所の駐車場の車のなかで妻と過ごすこともできなかった。シガーソケットではこの機械は動かない。夏にダーチャで試してわかっていた。トーニャがはちみつのことをきいた。台所にそのにおいがしていたのだ。はちみつは固まってしまったから捨てた、とブラーギンは答えた。「残念ね」とトーニャは言って、うとうとした。
夕方、ブラーギンは車からけん引ベルトを持ってきて、濃縮器を暖房のラジエーターに結びつけた。ベルトを取っ手の下に通し、きつく結んだ。トーニャが眠ると、ブラーギンはベッドを背にして床に座り、機械の本体に手のひらをのせた。機械が引くたびに、ラジエーターが配管に当たって小さく鳴った。
夜中にうとうとして、ラジエーターの音がやんだので目が開いた。ベルトは床の上で、くるくると巻かれていて、結び目がほどけていた。機械は戸口に立っていて、延長コードが洋服だんすから床を這ってあとを追っていた。チューブは機械から部屋を半分横切って、ベッドまでのびていた。
トーニャは眠っていて、枕の上の頭は戸口のほうへ、いっぱいまでねじれていた。カニューレの輪が、あごの下で張りつめていた。
彼は飛びおきて機械をベッドのほうへ引っぱったが、機械はいうことをきかなかった。トーニャは頭をもとに戻し、眠ったままため息をついた。ブラーギンは床に座りこみ、窓の下の鋳鉄のラジエーターに両足を突っぱった。右手で取っ手をつかんだ。車輪がずっと玄関のほうへまわろうとしているのが、手のひらに伝わってきた。ときどき機械が強く引き、トーニャは眠ったまま顔のそばのチューブをつかんだ。
「よしよし、大丈夫だ」と、眠っている妻に声をかけた。一度、指をさすろうとして手を離すと、機械はすぐに半歩進み、トーニャが戸口のほうへ頭を向けた。もう一度、今度は両手でつかんだ。
やがて彼は、左手の腕時計までが、手首を玄関のほうへ引いているのに気づいた。四十の誕生日、二〇〇九年にトーニャがくれた時計で、その箱のことまで今も覚えていた。歯でバンドを外して時計を床に落とすと、時計はリノリウムの上を玄関のほうへ這っていった。小机の上の小物入れが端ぎりぎりまですべり、なかでボタンと、トーニャの琥珀のブローチが転がった。
始発の路面電車が、まだ暗いうちに窓の外を通った。両手はしびれていた。袋が出るのは九時だった。
明るくなると、トーニャは目をさまし、枕の上から、彼を見たり、床を見たりして、長いことながめていた。
「これ、あなたの棚から持ってきたものでしょう」
ブラーギンはうなずいた。
「知ってるのよ、スタス。ショールのことも知ってた」
それからトーニャは、玄関の敷居まで這っていって止まった時計に気づいた。トーニャは小物入れに目を移した。
「でも、その時計はデパートで買ったのよ」とトーニャは言った。
自分の両手に目を落とした。手のひらに取っ手のあとがついていた。
「火曜までなんて、押さえていられないわよ」とトーニャは言った。
トーニャはゆっくりと顔からカニューレを外し、チューブを毛布の上に置いた。
「放して」
ブラーギンは放さなかった。トーニャはベッドから身をかがめ、彼の指に手を重ねた。軽くて、乾いた手のひらだった。ブラーギンは小指から一本ずつ、指をほどいた。
機械はなめらかに、音も立てずに離れていった。敷居を越え、玄関の廊下を転がって、ドアまで行った。延長コードが洋服だんすの裏からほどけてついていった。チューブが毛布からすべり落ち、床を這ってあとを追った。トーニャはマットレスの端につかまって座り、ひゅうひゅうと、機械より大きな音を立てて息をしていた。
ブラーギンが電話に手をのばすと、トーニャは首を横に振った。
「火曜まで……息、つないでみせる、スタス。電話はしないで」
玄関からは、夜と同じ一定のうなりが聞こえていた。機械はドアに突っぱっていて、小物入れは小机の端にのっていた。ブラーギンはベッドのそばの床に座り、トーニャは彼の袖をつかんでいた。
九時に、ブラーギンはクシューシャに電話をかけた。
「もう出ました」とクシューシャは言った。「トーニャさんは?」
「自分で息をしてる。機械は玄関にある。次の袋といっしょに持っていって、調書を書くよ」
記録しておきます、勤務が終わったら牛乳を持って寄ります、とクシューシャは言った。トーニャのこめかみの白髪がひと筋、頬から離れて、玄関のほうへなびいていた。